医学部受験英語個別指導

私は「正しい場所で、正しい方向を向いた努力は裏切らない」という言葉が嫌いです|医学部受験英語の講師が考える「努力」の真実

世の中には、「努力」に関する言葉が数多くあります。
その中でもよく知られているものの一つに、
「正しい場所で、正しい方向を向いて、十分な量なされた努力は裏切らない」
という言葉があります。
しかし、私はこの言葉が好きではありません。
理由は単純です。
この言葉は、一見もっともらしく聞こえるにもかかわらず、実際には何も説明していないからです。



「正しい場所」とはどこでしょうか。
「正しい方向」とはどちらでしょうか。
「十分な量」とはどれほどでしょうか。
この言葉は、そのすべてを曖昧なままにしています。
そして、ここに大きな問題があります。
これらの条件は、すべて「後付け」で定義できてしまうのです。
合格した人に対しては「正しかった」と言えますし、不合格だった人に対しては「どこかが正しくなかった」と言えてしまう。
つまりこの言葉は、客観的に検証することができません。



さらに言えば、この言葉はすべての責任を個人に押し付ける構造を持っています。
結果が出なかったとき、
• 努力が足りなかったのではないか
• 方向が間違っていたのではないか
• 自分のやり方が悪かったのではないか
こうして、原因はすべて「自分の努力の不備」として処理されます。



しかし、現実の学習はそれほど単純ではありません。
例えば、どのような家庭環境で育ったか、親がどれだけ教育に関心を持っていたか、幼少期から本や言葉に触れる機会があったか。
こうした要素は、学力に確実に影響します。
これは「才能」の話ではありません。もっと手前の、**「スタート地点の違い」**の問題です。
さらに、どの塾に通うか、どの先生に出会うか、どの教材を使うか。こうした要素も、学習の質を大きく左右します。



にもかかわらず、この言葉は、あたかもその「正しさ」が最初から与えられているかのように扱っています。
しかし実際には、その「正しさ」を見つけ出すことこそが最も難しく、最も格差の影響を受ける部分なのです。
私がこの言葉に違和感を覚える理由は、もう一つあります。
それは、この言葉があまりにも合理的すぎるという点です。



無駄を排除し、最短距離でゴールに向かう。
その意味では、非常に“正しい”発想です。しかし、そこには危うさがあります。
例えば、人間が空を飛びたいと思って手をバタバタさせても、飛べるようにはなりません。この意味では「間違った努力」です。
しかし仮に、そのバタバタを続けた結果、肩や腕の筋力が発達し、アームレスリングのチャンピオンになったとしたらどうでしょうか。
それは最初の目的から見れば、確かに「無駄な努力」です。
しかし、その過程で得られたものには、明らかに価値があります。



「正しい方向でなければ意味がない」と切り捨ててしまうと、こうした予測不能な成長や、偶発的な価値は、最初から存在しないものとして扱われてしまいます。
この言葉は、人間の成長を「最短距離での最適解」に限定してしまう。
しかし実際の学びは、もっと不確実で、回り道の多いものです。
遠回りの中でしか得られない理解や、思いがけない形でつながる知識。
私は、その「余白」を含めて成長だと考えています。



結局のところ、この言葉は巧みなレトリックを使い、誰からも反論されないように設計された「大衆向けの正論」に過ぎないのだと感じます。
この言葉は多くの人を「黙らせる」ことはできるでしょう。
しかし、この言葉が人を心から「励ます」ことは、決してないと思うのです。
だからこそ私は、この言葉がどうしても好きになれません。

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